掛かり付けの医師に本当のことを言うためのブログ 2

 

 

前回の続きです。

順番に書いていくのが一番整理しやすいと思うので、思い出せるところから書いていこうと思います。

確か、二歳半~三歳、ぐらいの頃だったと思います。

両親(この頃は常に一緒に生活している人が親、ぐらいにしか考えてなかったので)と一緒に遊園地に連れて行かれました。泊まり、とかではなかったので、多分後楽園(今の東京ドームシティー)か豊島園だったと思います。

メリーゴーランドとか乗って、お昼を食べて、そのあとです。

「もう行かなきゃいけないから、ここに座って大人しく待っててね」と「母」に言われ、「元気でね」と「父」が言いバイバイと手を振りました。私は何が何だかわからなくて、ベンチに座って離れていく二人の後姿を見ているしか出来ませんでした。

縫いぐるみを抱えていたと思います。

もう会えないんだな、と思ったのは覚えています。素直に言うと、寂しかったです。でも、今思うと、この時にこの「両親」とすっぱり関わりが切れた方が幸せだったのかな、とも思います。

ずっと待っていて、周りに人が集まってきて、私を指して「迷子?」「捨て子?」と言っていました。誰かが園の人を呼びに行ったと思います。

かなり待っていた気がします。五分だったのかも知れないし、三十分以上だったのかも知れない。

そうしたら、「両親」にとてもよく似た、別の二人連れがやってきました。「両親」よりは、二人とも若干若い感じがしました。この時迎えに来てくれた二人には私は虐待を受けた事が無く、何組もの「両親」が入れ替わり立ち代りやってきましたが、この時の二人にだけは私も懐きました。優しくて穏かな二人でした。他の「両親」たちと一緒にしては申し訳ないので、この二人を今後「Aの両親」と呼ばせてもらいます。

「母」は私を見て「○○ちゃん?」と言いました。頷いた、と思います。そうしたら、「父」が「行こうか」と言い、二人に手を繋がれて園を出ました。連れて行かれた場所は、朝出た、いつもの家でした。

私だけが帰って、何の説明もされぬまま、その日初めて会ったばかりの「両親」とその日の夜を過ごしました。

私は一言も喋らなかったようです。

次の日の朝になっても、ご飯の時も私は喋らなかったようで、「Aの母」がどこかへ電話をしていました。「私たちじゃ駄目だ、戻ってきて」と、切羽詰ったように話していたのを覚えています。しばらくしたら、前の日に私を遊園地のベンチに置いていった「両親」が家に戻ってきました。大人四人で何か喋った後、「Aの両親」は出て行きました。

私は、もう会えないのかと思っていた「両親」に会えて素直に喜びました。でも、二人は、厭そうな顔をしていました。ショックでした。

それからです。私だけが同じ家にいて、何組もの「両親」が入れ替わり立ち代りやってくる暮らしが始まりました。

ひょっとすると、既にそういう生活だったのかも知れません。ただ、私がきちんと認識したのはそれからでした。

「両親」が交代するたびに私は「さっきのオバサンはどこへ行ったの?」「ママ(ママと呼ぶように強要されていました)はどこへ行ったの?」と言うたびにその場にいた「両親」から「同じ人でしょう!変なこと言わないで!一人しかいないわよ!」と怒鳴られ、髪の毛を掴んで引きずり回される事もありました。顔を叩かれたり、箪笥に放り投げられた事もあります。頭や背中を打ったり、執拗に叩かれたり。

小さな子がそんなこと覚えてる筈ないだろう、と思う方もいらっしゃるかも知れませんが、TVや会話、一々食事毎のメニューなどは当然覚えていませんが、怖かった事はしっかり覚えています。

こんなことがあって、私は何組の「両親」が入れ替わろうが全て同じ人物と解釈するように躾けられたのだと思います。ただの、詐欺だと思いますが。

遊園地に置いて行かれた事、があってからどの位経ったかはわかりません。でも、一年以内です。ある日「両親」がどこかへ出かける時、「母」によく似たオバサンが一人やってきました。

その時は「買い物行くからこの人と少し待っててね」と言うような事を言われた筈です。だから私は安心していました。

「母」とオバサンがなにやら話して、「両親」が出て行き、私とオバサンの二人きりになりました。

私は遊んで欲しくて話し掛けたのですが、オバサンは私を煩がり「そこで大人しくじっと座っていなさい」と怒鳴られました。

一人でポツンと、どの位座っていたのかわかりません。ただ、どうしようもなくお腹が空いて堪らなくなり、隣の部屋にいるオバサンのところへ行って「お腹が空いた」ことを訴えました。オバサンは、多分少女漫画雑誌だと思います、寝転がって楽しそうに読んでいました。

オバサンは「私はいらない」と言ったのですが「二時だ」と言って簡単に海苔巻きを作ってくれました。座って待ってろ、というのでまた同じ場所に戻り待っていると、テーブルも出さずに私の足元に皿に乗った海苔巻きを床に直に置きました。

用があるからそれを食べてろ、と言ってオバサンは隣の部屋に戻りました。

私は、犬みたいだな、と悲しくなりました。犬の餌だな、と。

お腹が空いていたので泣きながら齧ったのですが、悲しくて海苔巻きが不味くて、また更に泣けてどうしようもなく吐きたくなりました。何組も「両親」は入れ替わりましたが、こんなに不味いご飯は初めてでした。

食べないとまた怒られるかな、と思って、一口齧ってはティッシュに包んでゴミ箱に捨てました。

そうしていたら、朝オバサンと交代した「両親」が帰ってきてオバサンは帰っていきました。

「母」がゴミ箱に溜まっているティッシュを見つけて、中身を見て、また私を怒鳴りました。なんでご飯を捨てるんだ、と。私はまた泣きました。泣いていたら「両親」が海苔巻きを味見して、不味さがわかったようでした。でも、私には一言も謝ってくれませんでした。何事も無かったように、泣いている私を馬鹿にして、結局その日のお昼は食べられなかった。オバサンはお茶も出してくれませんでした。水も飲ませてくれませんでした。

しばらくしてから「母」が「妹」を流産しかけ、夏頃から入退院を繰り返していました。私は「母」の「姉」の家へ預けられていたのですが、正直家よりも「伯母」の家のほうが楽しくて安心できました。

無事に産まれた後も「病弱だから」という理由で私は「妹」に触らせてもらえませんでした。「妹」が亡くなる前日に初めて手を繋いだ、筈です。「妹」の着替えもお風呂も絶対に私の目に触れさせないようにしていました。それでも狭い家だからわかってしまい、戸籍上「妹」なのですが、私が見たのは「母」が男の子に女の子の服を着せていました。

「母」の入退院から「妹」が死ぬまで、「両親」の入れ替わりは頻繁でした。

私が五歳の時です、妹が【死んだ】のは。

逆縁になるから、ということで「両親」は「妹」の火葬には行かず、私がよく預けられていた「伯母」と一緒に火葬場へ行きました。火葬されて出てきた骨を見て参列者一同がビックリしました。子供心に私もおかしいと思いました。誰かが言っていました。「生後半年ぐらいの子の骨の大きさじゃないか」と。私も「妹」にしては随分小さすぎるなと感じました。骨は全身分だったのですが、まるで病院のベッドで寝ている赤ちゃんに見えました。棺桶にその頃私のお気に入りだった白い猫の縫いぐるみを入れたのですが、縫いぐるみの目の欠片も何も残っていませんでした。

棺桶ごと入れ替わったのか、と誰かが言っていました。私も、そうじゃないか、と思いました。葬儀屋さんが俯いてずっと黙っていました。マズイ事がばれた時の大人の顔そのものでした。

火葬場から私が戻ると葬式中の両親ではなく「Aの両親」がいました。「Aの両親」は、前回にも書きましたが、何組も入れ替わる「両親」の組み合わせの中で私が唯一懐いた二人でした。

その「妹」の葬儀から一年保育の幼稚園に私が通うようになるまでの事は特にこれといった事は起こらなかった様に思います。

幼稚園といえば、本当は私は二年保育の私立の幼稚園に通う予定でした。その幼稚園は倍率が高く、願書を出しても入れるわけではなく、応募者の中から抽選で入園が決まるのですが、私は受かりましたが近所の同い年のあゆみちゃんは落ちてしまいました。

近所の同い年の友達と同じ幼稚園に通うことに憧れていたので私も寂しかったです。それなのに「母」はこう言いました。

「あゆみちゃんの家は家柄が大したことがないから落ちたのよね、やっぱり幼稚園だって来て欲しい子とそうでない子は選びたいもの。ウチは恥ずかしくない家柄でよかったわね。」

何を言っているのか全くわかりませんでした。ただ、「母」は自慢気にご満悦そうに笑っていました。

その後、当時よく預けられていた「伯母」の家に呼び出され、私は「伯母」と「従姉妹」から幼稚園がどれ程つまらなくて窮屈なところか長々と話して聞かされました。

結局、「母」が差別発言をしたのでここでお詫びをしておかないと後で大変な事になるから、だそうです。

結果、私は大人たちの勝手な都合で幼稚園を辞退。その代わりにあゆみちゃんが繰り上げ当選になり無事に幼稚園に通うことになりました。

私は、幼稚園へ行って友達が出来ると思っていたのに、結局一人で誰も遊び相手がいないまま大人しく過ごしていました。つまらなかったです。遊んでいたのは「伯母」の家ぐらいでした。